はじめて
毎年恒例で3Qから一年業務ピークに向かっている途中の「イーサン」です。
最近、面白いと思った質問がありましたので、ここにも移して皆さんと議論したいと思います。質問は、”多くの人が、コンピュータ、ビッグデータ、AIを通じて、人間社会の将来の需要と供給について、より正確な予測ができると考えていますが、市場経済より段々計画経済の方が効率的になります。あなたは賛成ですか、反対ですか?” です。
需要が予測できない
私自身は反対です。
つまり、ビッグデータやAIによって、人間の需要と供給の未来を非常に正確に予測することはできないと思います。私自身は、需要が予測できないのは、人々の需要が無限にあり、常に満たされなければならないと考えています。しかし、その需要に応えるために、ソリューションは様々で常に変化しています。
例えば、10代の子供は、同齢者と何を比較していますでしょうか?それは、新しい靴、新しい服、新しいおもちゃなどです。もう少し年齢の高い中学・高校の学生になると、運動腕時計、持っているiPadで比較しています。仕事を始めたばかりの人は、買った最新型の携帯電話、旅行に行った場所、行ったレストランになりますでしょうか?もう少し年を取ると、どこで家を買ったかということになります。子供があったら、子供がどの学校に行くかということになります。もう少し大きくなったら? 比較しているのは、子供が時間がある時に会いに来てくれるかどうかです。最後に、比較対象は、どの老人ホームに入ったかということです。
比較は常に存在し、需要は高まっていますが、何が求められているかは、その時々の状況、技術水準、生活水準に大きく関係しており、これらはすべて予測することができません。なぜなら、イノベーションそのものは、その名の通り、明日には知られているものであり、今日には知られていないものだからです。
データは何もないところから作られるものではない
そして、もう少し深く考えてみましょう。
今日、誰もが「ビッグデータとAIを使って予測ができる」と言っていますが、そのデータ自体がどこから来るのかを考えてみる必要があります。データは常に観察、意見、立場、理論に基づいていることを理解しなければなりません。理論がなければ、観察の視点がなければ、データは存在しません。テーブルにリンゴが置いてあります、「このリンゴを記録するために、リンゴについてのデータを書いてください」と言うと、だれでもすぐに何を記録しますか?と考えるはずです。それは、形、色、甘さ、重さ、硬さ、あるいは他の観点なのか?記録されたデータの前に観点がないといけません。つまり、どのような理論的観点からも生まれない、純粋で標準化されていないデータというものは存在しません。ビッグデータ収集を行う際には、理論、観点の自体が先行する必要です。データを得るためには、まずアイデアや視点がなければなりません。
例えば、最近のインターネット企業では、パスワード・指紋だけではもう不十分で、パスワードをタップしたユーザーのリズムを計算して、同じ人がパスワードを入力したかどうかを判断して、本人確認を行っていると考えています。これはビッグデータですが、ユーザーのキー打つリズム、つまり、あるキーと別のキーの間の打つ時間間隔を収集しなければなりません。 この指標では、コンピュータにそのようなデータを記録させる前に、アイデアがなければならない。そのような考えがなければ、ビッグデータはその情報を記録しません。
簡単に言えば、ビッグデータの裏にはアイデアや立場、理論も必要です。そして、これらの考え方、立場、理論は人間の想像力によって作られるものであり、人が作る可能性のある理論、考え方、立場の数は無限であり、人間の価値観、志向性、好き嫌いを通して選択し、有用な考え方を選び、有用な理論、観点を選ばなければならず、これらは人間が行わなければなりません。
さいごに
冒頭質問について、コンピューターやAIは、もちろん素晴らしいものですが、人間の想像力や価値判断もテクノロジーによって変化し、最終的には世界がどこに向かっているのかを予測することは不可能ですよね。
では、まだ来月宜しくお願い致します。